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Philologie d'Orient et d'Occident
11 août 2020

Oralité et textualité (7)

Philologie d'Orient et d'Occident (461) le 11/08, 20 Tokyo K.

Oralité et textualité dans la langue d'Homère (7)

La Langue avant la langue homérique (4)

KIMG0983

L(agerstroemia) Indica dans une rue de Shibuya, Tokyo (photo, K., fin juillet)

   K. est tombé sur une traduction en japonais, non signée, apparemment du livre de Meillet, de 1932. (Origines indo-européennes de la métrique grecque).

   La traduction était sans faille, même belle. On peut se demander à qui appartenait ce beau texte. Or K. a soudain compris qu'il s'agissait avec ce texte d'une traduction dont il était lui-même l'auteur, car un brouillon de sa propre main, y était bel et bien joint, comme pour l'attester. C'était l'évidence même. K. n'avait pourtant aucune idée de ce qui s'était passé, car c'était alors une année compliquée (cf. billet 460). L'Orient et l'Occident ne doivent-ils pas dans ce monde de confusions, tristement mouvementé, s'équiper des mêmes idées ? L'idée de "prétérition" (voir le monde par ce qu'il y a de plus ancien pour prévoir le futur et comprendre le présent, par le moyen d'allusions, cf billet 455) n'est-elle pas précieuse ? Or la valeur la plus ancienne (des caractères chinois) se réfère en Occident à la valeur orale (alors qu'elle est plutôt écrite, sous la forme du grec ancien) des épopées homériques qui remontent aux années 3000 BP. Or en Orient, quant aux caractères, ils remontent à la plus ancienne période. On ne peut dire laquelle, car on ne sait jamais lequel des deux, l'oral et l'écrit est le plus antique. 

   Ne vaut-il pas mieux se partager en étudiant de part et d'autre la plus ancienne formule d'Orient et d'Occident, pour comprendre la peine dont souffre actuellement le monde ? Voici la version japonaise (à l'origine chinoise) du texte dont on a parlé ci-dessus.

βLes origines indo-européennes des mètres grecs      A. Meillet  1932

(ギリシャ語韻律のインド・ヨーロッパ起源)

一章     問題          翻訳工藤進

  決まった規則に従ってリズムがつけられた言葉である詩句については観点が二つある。

  言葉(詩句)が成り立っている(枠としての)「言語」がまず一つ。これがῥυθμιζόμενον (リズム要因)を生み出し、韻律はまずこの言語の自然なリズム構造に依存する。

   もう一つはこの材料に課されているキマリ。このキマリは伝承される。

   韻律学者の仕事は言語から供給される材料にこのキマリがどのように適応されているかを確定することである。

 考えるべきものは第一に(当該)言語、もう一つは伝承されているキマリである。

   (二つの)言語のリズム条件が明確に同じ場合でしか(共通の)キマリは存在しえないので、言語構造に深い変化のある時、キマリの上に多少なりと明白な変化が生まれる。この言語のリズム構造に変化があったあとに(古い)キマリを維持しようとするとリズムは不自然なものとなる。ギリシャ語の韻律、また帝政期のラテン語の韻律に起こったのはそれである。ロマンス語の韻律と古典期ラテン語の韻律との関係付けが難しいのは、ロマンス語の韻律構造は古ラテン語のそれとは同じではないからだ。

 諸言語の韻律構造がそれぞれ違う場合の韻律の比較は無駄である。

 印欧語の韻律構造は知られている。それにはいくつかの独自の特徴がある。

 印欧語のアクセントは声を高めることにあった。純粋な高アクセントであり、ここではトーン(声調)と呼ぶことにする。これは「高低」の違いであり、いかなる場合でも「持続」や「強調」が介入しないことについては、インドと古代ギリシャの音声学者の証言は一致している。これは古代印欧語母音の扱い方においてトーンは介入していないという事実に符合する。インド・イラン諸語、ギリシャ語、共通スラブ語、共通バルト語で、強母音が弱母音と違って扱われている様子はない。一方、強調、あるいは持続の違いが、母音の扱いにときには大きな影響を及ぼすことがある。印欧語語根 *bhere- の複数二人称における三種の -e- は、ヴェーダ (bharatha)、ギリシャ語 (φέρετε)、古スラブ語 bereteで同一に扱われている。印欧語の母音交替をアクセントから説明しようとした(不確かで恣意的な)仮説がどんなものであれ、そこからここに導き出されるものは何もない。母音の交替は、印欧共通語以来すでに獲得されているものであり、そしてアクセントと想定される動きは印欧共通語時代ではなく、それ以前の時代を証するものであろうが、それについてはここでは考慮しない。印欧語の声調がその性格、少なくとも原則的にその位置を保った二言語、すなわちギリシャ語とヴェーダにおいて、この声調が詩句の中で何の役目も果していないのは自然である。強音節、弱音節の配置は、ヴェーダ詩においても古代ギリシャ詩においても意味を持たない。

 声調の古い位置がある程度維持されても「持続」、あるいは「強勢」の変化に関係しやすい言語は、印欧語韻律を保つのに適さない。ロマンス語、ビザンチン・ギリシャ語の韻律(それが作者の時代の言語に因る限りだが)がその例である。さらにスラブ語、バルト諸語のように、後に(印欧語と)証明された言語もこの例に入る。これらの言語は特徴とされる高音調を維持しつつ、高音節は「長さ」と「強さ」を帯びがちになる。

   印欧語のリズムはこうして声調から独立し、音節間の長短の違いのみに根拠を置いていた。

  これらを比較してわかることは、印欧語のどの音節も、短くあれ長くあれ、決まった尺度を持っていたことである。

  しかしこれは、全ての短長音が同じ長さ、短さであったということではない。例えば、-aは -e、-oよりは性質上長く、-e、-oは -i -uより長い。従ってある短母音 aと長母音ī間の実際の持続の違いは大きなものではなかった可能性がある。言語において大事なものは、絶対的な長さではなく対立的(相対的)なものである。話し手が長く感じる音は長音、短く感じる音は短音である。物理的なものではなく、聞き手に対する働きかけ方である。

  さらに長音が全て同じ性格というわけでもない。例えば、長母音を持つゆえの(本質的)長音節の場合と、短母音が後ろに複数の子音を控えているゆえの(位置による)長音節の場合とは正確には比べられない。それに子音群同士の違いも確かにあった。esteのような場合とèste のような場合の違いもあったはずである。ヴェーダ詩の母音の長さは、多くの場合、語の末尾ではよくわからない。こうした母音を含む音節の長短の区別は明確ではなかったに違いない。ホメーロスの言語には不完全な長音節が、長音節に数えられている場合がある(八章参照)。リズムが存するためには、短音節とは違った音節である感じを歌い手が与えることができるだけでよかった。

  こうした留保があるものの、印欧語文の音節は、長、短に分けられていたことは間違いない。長音節、短音節を決まった順序で交替させることでリズムが得られていた。

  ある現代の韻律学者(例えば、Thomas Goodell, Chapters on Greek Metric) が観察したように、ギリシャ詩(ヴェーダ詩にも言えるに違いない)のリズムはこの長音節と短音節の繋がりだけから生じている。ここで現代の学者がよく口にするが実証されたためしがなく、古代印欧語のリズムの特徴そのものと矛盾しているictus(強音)を引き合いに出す必要はない。ドイツ語や英語のような強弱アクセント言語の国の人は、持続的、連続的変化にだけ依拠するリズムをうまく想像できない。しかし一般的リズム理論によれば、長短の交替、音楽用語を用いるならば四分音符と八分音符の交替が、聞き手にリズム感覚を納得させるには十分らしい。このリズムは、様々な強勢要素から生じるリズムより目立たないかもしれないが、存在する。

   印欧語詩のリズムは、したがって、長音節と短音節の連なりだけから生じている。古代ギリシャ語でもヴェーダでも韻律の単位は音節である。言葉は音声学的に音節に分解されるとして、一方、音節は語より成り立っている。

  音声的には文が互いに繋がった音節から成る言語 (ヴェーダがそうであり、また古代ギリシャ語もそのようだが)で目立つのは語末である。というのは、「語の末尾の音声的扱いは、ヴェーダでも古代ギリシャ語でも、語中の扱いと同じではない」(Gauthiot: La fin de mot: より)からだ。詩句の語末には役目があるが、リズムはこの語末の配置には関係しない。

  語末の役目は、ある長さを持った詩句では語の終わりは決まった場所に置かれることである。coupe(句切)と名付けられている。句切は詩句のリズムに関わらない。一定の長さをもつリズムの連続に付けられる一つの印である。よく理由なく思われているような一つのリズムを終わらせるものではない。この coupe はリズム交替の明確な印である音節の長短には関わりなく、詩句の終わり特徴づけるものも見られない。意味の区切をさすものでもない。

  ヴェーダ詩と古代ギリシャ語詩の本質的特徴とはつまり、アクセント位置への無関心、長、短音節の連なりにのみ依拠するリズム、そして、少し長い詩句では、詩の決まった位置に語末がくるということ。これらの特徴は、ヴェーダ語と古代ギリシャ語という二つのグループの言語の音声的構造から生じている。この構造は印欧語から受け継いだものなので、同じ特徴は印欧語の韻律にあることを認めなくてはならない。しかし、これらを支配しているものが音声構造であるからといって、一方では印欧語、他方ではヴェーダ、古代ギリシャ語の間に一つの伝承(キマリ)があるということではない。キマリの存在はいくつかの個別的韻律の用法が維持されていることからしか生じない。(À suivre en français)

   ところで、

 

 

 

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